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 第3話 グアム大地震 サバイバル旅行記 (1)津波が来るぞー

さて、ここで、少し仕事を離れ、プライベート?な旅行記から少し。。。

この頃は、仕事の海外出張の合間に家族旅行で海外へという事もあり、2週間の海外出張から帰国して、2日後の夏休みにグアム島へ家族と海外旅行するという、まあ離れ業もやりましたね。。いやいや大変、そんな一コマの出来事。

1993年8月8日(日)

マグニチュード8.2で、グァムでは87年ぶりの大地震。その時、まさにその時グアムで夕食時にこの地震に会い、ホテルが倒壊。

さてさて。

今から約20年も前の話ですが、ちょうどその時に家族でグアムにいて、未だに家族の間では、語り草になっている家族ごとサバイバル状況にあった話ですが

 

忘れもしない、あれは、丁度夏休みを利用して、家族でグアムへ4泊5日の旅行へ行き、帰国2日前の夕方でした。上が小学生低学年、下の子供が幼稚園年長の2人の子供を連れての海外旅行で、その日は、グアムにも慣れてきて、夕方、4人でホテルの近くの平屋の焼き肉レストランで食事をしようという事になり、海外でよくある、鉄板焼きのパフォーマンスを見ながら肉が焼けるのを4人ともカウンターで今か今かと待っていました。。

 

隣の客は、すでに肉が焼けて食べていて、我々家族も早く焼けないかと待っていました。そんな状態で、夕刻6時ごろだったと思います。突然、揺れだしたんです。最初は、まあ地震だなと思うくらいでしたが、その次に突然、ドンドンドンととても大きな縦揺れの地震が来て、これはいかん。と思った瞬間、レストランに居た従業員が脱兎のごとく外へ飛び出していきました。建物のありとあらゆる機材が音を立てて揺れています。揺れは、刻々と大きくなり、縦揺れで体が大きく振動しているくらいでした。

 

そこで、我々も逃げろと言って、家内は、下の子供を横抱きにして、素早く外へ出ていき、私も上の子供を抱えて、カウンターの椅子から降りて、出ようとしたその時に、また大きな縦揺れが来て足が滑り、その椅子の横の床に上の子供もろとも もんどりうって、倒れてしまいました。

 

これはいかん と思いながら体勢を立て直そうと、立とうとしましたが、揺れがひどくて、立ち上がることができません。。これはいかんとあせりましたが、なすすべがなく仕方なく、カウンターの下へ子供を抱えて這いずっていって、少しでも上からの落下物から身を守りました。。

 

ものすごく時間を長く感じましたが、実際は数10秒だったかもしれません。この間、家内は下の子供を抱きかかえて、いち早く外へ脱出して、私と上の子供だけが取り残されました。

 

そして、少しもがいていると、少し揺れが収まり、立つことができるようになり、子供を抱えて、外へ一目散。。。。と。。外は、なんと嵐、大雨。バケツをひっくり返したような雨が降っていて、雨の中に家内と下の子供、他、何人かの人達も、道路の向こう側にこちらを見ている様子が見て取れ、我々も、そこへ合流。

外は土砂降り。。当然傘なんてありませんので、ずぶぬれで、道路上に立ちすくんでいました。どうも台風が来ていたようでした。レストランへ入る時は雨は降っていませんでしたが。

 

周辺のレストランや店の客という客が道路際に、ずぶぬれになりながら、大勢の人が立ちすくんでいました。どうも現地の人は全て、自宅へ帰ったようで、道路上に立っているのは観光客ばかりでした。

 

土砂降りの雨。横揺れ、キャーという阿鼻叫喚。。。夕暮れで薄暗い中で、どうなるのかと思って。。。

 

この時、家内は、逃げ遅れた私と上の子供が、なかなか出てこないので、建物の中でもう助からないとも一瞬思ったみたいでした。さあ、それから何分経ったでしょう。。。時間の概念はもうなくなっていましたが、

 

どこからか、大きな声で、「津波が来るぞー」と何度も言うのが聞こえました。やはり、グアムという事で日本人が多いせいか、だれか日本語で叫び始めました。「津波が来るぞー。。高台の方へ走れー。。。」すると、道路にただずんでいた大勢の人が一斉に山側へ走り始めました。眼に入ったところで約100人以上でしたか。 我々がいたホテルやレストランは、海際近くにあったのでそれこそ、津波が来たら、ひとたまりもありません。まさに蟻の子を散らすように相当数の人が土砂降りの中を懸命に走り始めました。

土砂降りの中を家内と私は、子供を一人づつ抱えて、山側のなだらかな坂を道路を横切りながら。。。走る。走る。走る。どこまで走ればよいのかはわかりません。とにかく周囲のみんなが止まるまで走った。

 

そして、何百メートル走ったか、やっと小高い丘のところにアパートみたいな建物が見えてきて、その軒下に数十人が雨宿りしながら止まっていたので、我々もそこで、足を止めて、様子を見ることにしました。まだ余震というか揺れが少しあるようでしたが、一時ほどの大きな揺れは感じられなくなりました。アパートの軒下に濡れながら待っていると、アパートの外人さんが、子供だけは、中へ這入りなさいと言われ、子供2人だけ屋内で休ませてくれました。

 

そして、眼下には、雨がカーテンのようになってうすぼけている薄曇りのホテル群と土砂降りの中、大勢の人が路上に出ているのが見えました。ホテルや建物の外観の一部は壊れているのも目に見え、我々のホテルも倒壊したに違いないと思ったものでした。

 

その軒先で何時間を過ごしたか、あまり記憶にないが、3~4時間以上は経ったと思います。もう津波の影響はないだろうという事で、人々は三々五々ホテルの方へ引き返していきました。時刻はすでに10時過ぎ、地震のため照明も落ち外は真っ暗です。我々も、とぼとぼと恐る恐るホテルへ戻っていきました。

 

さて、ホテルへたどり着き、ふと見ると、ホテルの所々の壁がはがれ落ち、みじめな外観になっていました。多少の危険は覚悟でとにかく荷物を出さないといけないので、我々は、ホテル内へ入り、暗い階段で部屋へと向かいました。非常灯が付いていたと思います。我々は確か4~5階の部屋だったと思います。

階段の所々も壁がはがれおち、がれきが落ちていました。まさにそのころ映画で見ていたポセイドンアドベンチャーの脱出シーンを彷彿とさせました。

 

なんとかやっと部屋の前に行きましたが、鍵を外してもドアが開きません。そう、ドアが変形して扉が押しつぶされてしまい。開かないのです。

 

これまた茫然自失。。。どうしたものかと考え、数10分経ったでしょうか。誰かが、大きなバールを持って廊下を行き来しているのに気が付き。我々もバールを借りて、ドアを壊し、こじ開けることに成功したのです。

 

さあ部屋の中へ入ってみて、大変、備品のありとあらゆるものが床の上に散乱しているではありませんか。窓は壊れガラスも床に落ち、TVはひっくり返って床に落ち。。。。とにかく足踏み場がないようでした。しかし荷物などは無事で4人とも命に別条はなく、ほっと一息ついたのも事実でした。

 

そこで、我々はまだ夕食をとっていなくて、食べる直前に地震に会ったためにこの時初めて空腹を覚えました。しかしまともな食事とてあるはずがないので、土産物として買っておいた手荷物の中のハワイアンチョコレートを4人で分けて、まあなんとか食いつなぎ、その夜は不安ながら、ドアが壊れたホテルの一室で4人で固まって睡眠をとりました。

 

時々余震で揺れるために、そのたびに子供たちは、びくっとして起き、手を握りながらの一時睡眠でした。この時の暗い中、心細い中での揺れによる恐怖感は、子供たちの心に強く残ったようで、いまだに覚えているようです。

 

さてあくる朝、明るくなってホテルの一階に降りていくと全容が見えてきました。ホテルはほとんど倒壊寸前。全室が居住に適さず、またホテルの従業員もすべて自宅へ帰り、客の日本人だけでした。これから我々はどうやって食いつなぎ、帰国できるのだろうか、飛行機は飛ぶのだろうか?? 計り知れない不安と心配に心細くなったが、なすすべがありません。

次頁 第4話 へ続く  いよいよサバイバルのスタート。。食べ物が無く、泊る所も無く、飛行機は飛ぶのか?!

果たして家族は無事名古屋の土を踏むことができるのでしょうか?

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