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第2話 初めてのダンスは名曲とともに

​(第1話 からの続き)

 

ドーバー海峡の海底トンネルを通って、

無事大陸側へ。大陸側は、フランスのCalaisですが、ベルギー国境に近く、我々は、即ベルギーへ入国、ブリュッセルへ向かって順調にドライブ。

 

ブリュッセルへは約200㎞、ベルギーの田舎町をのんびりと運転しつつ、昼時になったので、田舎の10人も入れば一杯になる小さいレストランへ入って2人で食事をとり、

 

さあ、お勘定をしようという段になって、イギリスから直接車で乗り入れたので2人ともイギリスポンドしか持っていない事に気づき、ポンドで支払おうとしました。まだEU連合ができる前であり、ベルギー通貨は、ベルギーフランでした。田舎ということもあり、クレジットカードでも駄目。

 

お店の主人は、ポンドは受け取らず、駄目だということでした。さらに問題なのは、ここは、ベルギーの田舎町で英語が全く通じません。ベルギーの公用語は、フランス語、ドイツ語、オランダ語で都市部であれば、当然英語は通じますが、なんせジャガイモ畑がえんえんと続く田舎道のレストランであり、言葉が通じない、このレストラン主人が何やら話してくるのだが、2人とも全く理解できない。現金が無い。ということで、我々2人は茫然自失。

 

大体、この同行したイギリス人も英語以外は話さず、それも彼の働いているイギリスの小さな田舎町コベントリー(Coventry)から外へ今まで出たことが無くパスポートも初めて今回取得したという生粋の田舎のイギリス人で、私も飛行機で国をまたがる時は、現金の両替を忘れないが、いかんせん車というのは、そういう必要性を全く感じさせない。

 

まあなんというか10分ほど2人で呆然としていた所へ、客の中に英語がわかる学生がいて、彼が自ら通訳を買って出てくれ、フランス語と英語を取り持ってくれることになり、

 

どうもレストランの主人は、ポンドとベルギーフランの両替率を電話で聞いて調べろ というようなことを言っているようで、その学生が電話して、聞いて調べてくれ、それをもとにポンドでの支払いをしてOKということになった。いやー学生さんに2人してthank youの連発でした。

 

さて、車での旅行もその後、順調(?)に進み、ベルギー→ドイツ→スイスからイタリアへ向かって、スイスのアルプス山越えです。いわゆる「ハイジの少女」のごとき風景が目の前に広がり、山道を車でまる一日かけて、イタリア国境へとさしかかりました。

 

ここで海外の道路事情について話さなければなりません。日本では、高速道路は全て有料ですが、海外においては、無料の場合も多く、米国や英国はほとんどすべての高速道路が無料です。このイギリス人も例外なく無料の高速しか使ったことが無く、残念ながらイタリアは有料のため、お金を支払う用意をして来ていません。ただ、このイギリス人は、有料道路ということでヨーロッパの有料道路で使用可能なカードみたいなものを用意していたみたいです。

 

さて、イタリアへ入国し、高速道路へ差し掛かって、料金所へ入り、バーの前にある、機械にこのカードを入れたが、反応がなく、くだんのイギリス人はまたしても呆然。。。

 

この料金所は日本と違って、すべて無人で、機械には、イタリア語しか書かれておらず、これも読めない。。そこで、クレジットカードを入れてみたり、他のスリットがないかを調べたりで、5分くらいたち、そこで仕方ないので、緊急時の連絡ボタンみたいなものがあったので、それを押しました。。。すると、何やらイタリア語でまくしたてられましたが、当然2人ともわかるはずがない。。。そんなこんなしているとき、ふと後ろを見ると、我々のレーンだけ長蛇の列。。。なんか、料金所へ入るかなり手前からレーンが固定されるので、列を容易に変更できなくて、長蛇の列ができてしまいました。。。

 

あせってそこで、またカードをスリットに突っ込んでみたり、試しにポンドを突っ込んでみたり。。スピーカーからは、イタリア語で、ののしられ始め、まあ言葉がわからないとはいえ、怒っていることだけは、わかりました。。。

そんなことを10分もやっているうちに、急にバーが上がり、これ幸いと我々は、通過。どうも業を煮やして、遠隔でバーを開けてくれたみたいでした。

 

そこで、ふとまた後ろを見ると、かなり後方で、20~30m長の運転台と荷台が分かれている超大型トレーラが、まさに列を変更しようと、運転台を我々のレーンから横へ移動しようとして車を横にしている最中で、それも運転士が下手なのか、荷台が横になってしまっていて後続の車の「とうぜんぼう」になっていて、これまた渋滞の原因になって、長い長い渋滞の列ができてしまい、後続の運転手は、何やらイタリア語でののしっているようでしたが、まあ我々は、イタリア語はわからないので。。。。そのまま車を出して、一路イタリアミラノ市内へと向かいました。(イギリス人ともども、旅の恥は掻き捨てか?)

 

ミラノ市内へ着き、会社の支社へ行ったのですが、どうも該当の住所に会社が見当たらない。そこで、ミラノ市内をうろうろあちこち運転しながら探したのですが、どうしてもわからず、

仕方がないので、とある、書店へ入り、英語で「迷子になって、支社へ連絡したいので電話を貸してほしい」と言ったところ、ここの書店主は英語が通じ(さすが都市部)電話を借りて、支社へ連絡、我々が今どこにいるのか我々はわからないので、場所だけは、店主に代わってもらい)迎えに来てもらい、無事支社の玄関へ着きました。

 

そこで、ふと玄関先を見ると、それは最初に我々がたどり着いた場所で、最初に支社についていたことがわかりました。何故、会社だとわからなかったかというと、看板が原因でした。

 

通常、イタリアの場合、会社の看板とか、広告の看板などは、通りに面して出すことができないため、会社名は、たった縦5㎝、横20㎝位のプレートに会社名を書くだけで、マークもなければ、何もないので、どうも見落としたようです。。・いかに我々が日本で看板を頼りに行き来しているかという事を思い知りました。国が変われば、やり方も変わりますね。

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さて、話は変わって、まだ海外出張経験が浅い時、米国デトロイトへ初めて、一人で仕事で出かけたときのこと、仕事が終わった時は、6時過ぎでちょうど12月24日の夜、

そうですクリスマスイブでした。米国での仕事納めみたいな日で「今夜クリスマスパーティーを会社でやるので、君も出席しろ」と言われ、まあ飲み食いするだけなのかな  と思って、出席。

 

パーティーが始まり200人~300人の参加者で、型通り、デトロイト支社長から今年度の締めくくりのあいさつがあり、あとは飲み食いが始まりまして、1時間ほどたって、このあとが、日本のパーティーとは大違い。生バンドが出てきて、音楽演奏が始まり、ほとんどの米国人は、めいめいダンスを始めました。参加者の99%が米国人で日本人は数えるほどしか居ないので、まあほとんどの人は踊っているという感じですかね。

 

よく見てみると、パーティー会場の真ん中と端の方にはちゃんとスペースが開けられていて、思い思いにダンスを踊っているのでした。 まあ私は ダンスの経験がなかったのですが、米人からお誘いを受けて、若干足をバタバタさせて動いていた記憶がありますが、まあ良くは踊れないので、見ている方が多かったでしたが、米人はそれぞれ楽しくダンスをしていました。社交ダンスもこの様に一般化している欧米では楽しいものですね。

 

この時にかけられていた唯一覚えているブルースの曲が 下記の「Don't Fence Me In」でした。しかもBing Crosbyが歌うこの曲は、米国では名曲中の名曲でダンス音楽として米国ではよく使われるとの事。 このDon't Fence Me Inの歌の意味自体の意味が、「女性が、私は自由になりたい、私に構わないで」という男性から自由になりたい、全ての事から自由になりたいという女性の心の「ひだ」を表した曲で、そういう主題を持った映画やドラマによく使われている名曲で初めてのダンス曲でしかも異国の地ということもあり印象的で、ブルースを踊るというよりも曲に聞き入って足を動かしているという感じですかね。

 

 

そうそう

社交ダンスといえば、ドイツのシュツットガルトは、ベンツの本社がある事で有名で、私もベンツの技術者との討議のために何回か訪問したのですが、そのシュツットガルトでは、社交ダンスの なんとかと言う公式競技会が開かれていて、どういう経緯だったか忘れましたが、その競技会場に立ち寄って、練習風景を見たことが有るのですが、まあ欧米人は、体格が良く、女性でも背丈が170cm以上というのはザラですから、そのダンスのダイナミックなことと言ったら、まあちょっと驚きましたね。時間がなかったからか、関係者以外は入れなかったのかは忘れましたが、本番の競技会は見てませんが、まあ推して知るべしですね。

 

次回 第3話は、 1993年8月8日(日)マグニチュード8.2でグァムを襲った87年ぶりの大地震。

その時、まさにグアムで夕食時にこの地震に会い、ホテルが倒壊、命からがら日本へ戻った時の話を紹介しましょう。

 

 懐かしの名曲 Don't Fence Me In

右のボタンをクリックすると再生できます。 

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