知られざる 電子技術者の抱腹絶倒、驚異の物語
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「群 青」 感動の物語
(オーストラリア シドニーへ旅行中に現地で聞いた話と,一部インターネット上の記録、記事をまとめたものです)
太平洋戦時中、日本軍によるダーウインへの壮絶な空爆、戦時の日本軍のオーストラリアへの侵攻はあまり日本では知られていませんが、現地で良くその足跡が語られます。
シドニー湾への日本軍の侵攻大作戦も、語り継がれている海の大きな謎として、
現地観光では良く聞かれます。
1942年5月31日戦時下、英国連邦オーストラリアを攻撃すべく小さな3隻の日本海軍、特殊潜航艇がシドニー湾に潜入しました。
魚雷二本だけを積んだ2人乗りの小さな潜航艇一隻は防御網に絡まりシドニー港入口で
自爆、一隻は爆雷を受け自爆、魚雷を発射した残りの一隻は脱出に成功するも、その後行方不明に。
この時の魚雷でオーストラリア艦一隻が沈没し21名の乗員が死亡。自国の死者を出したにもかかわらず4日後オーストラリア海軍は自爆した2隻の特殊潜航艇を海底より引き上げ遺体の乗員4名の海軍葬を行いました。
まだ戦時中でもあり敵国日本軍人への葬送は、オーストラリア国内では大きな批判の声が上がりましたが、推進役になった海軍司令官は4名を称えて弔い
「この日本海軍軍人が示した勇気は誰もが認め讃えるべきものでありこの小さな鉄の棺桶に乗って死地に赴くには非情な勇気がいる。この勇士の犠牲的精神を祖国に捧げるオーストラリア人が何人いるであろう」と述べられ、
その後4人の遺骨が引き上げられ、潜航艇は復元されキャンベラにある戦争記念館内に安置されました。
この話には後日談があり23年後、
この記念館の館長夫妻が日本の遺族の元を訪れました。
迎えたのは、乗員遺族の老いたる母。
館長夫妻は墓に参り、この母に対し
「オーストラリア全国民が、ご令息の勇気を讃えています」
その3年後、83歳の母は彼女の家の庭にも咲く
カンパニュラが足元に自生するシドニー湾の断崖に立ちます。
紫雲の色が紺碧の海に映える狭い湾口を見つめ頬を濡らしながら呟きました。
「よくこんな狭い所を通って来て。母は心から褒めてあげますよ」
その後、キャンベラの戦争記念館に向かった母は、館長から遺品を手渡されます。
それを目にした母はさらに全身を大きく震わせ館長の手にすがったと言います。
その遺品とは故人が最後まで身につけていた母が作りし千人針でした。
さらに時は経ち、行方がわからなく謎とされていた最後の一隻がシドニー沖の海底で
2007年に発見、遺族と共にシドニー湾で慰霊祭が行われたのです。
65年間オーストラリアの海底で眠り続けた魂に降り注がれる日本の酒。
潜航艇は引き上げられることなくこの場所で、この群青の海で、
さらなる眠りにつくことになりました。
報いられる事の無いこの不変な愛があるならもう少し世界も平和になるのにと思うのは私だけでしょうか。